他人の哲学は自分が八方ふさがりに成ってから

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哲学や啓蒙書って、
自分で解決できる手段を、試しつくして、
もうダメ!
という問題意識がある時じゃないと、
響きにくいですね。

考えたこともなかった、
気づかなかった理論を読んではじめて気づけたというより、
もやもやと、言葉に出来なかった思いを、
言葉にしてくれる役割の方が大きいかも。

一週間ぶりの休日で、
昨日の夜は、久々、夜明けまでPC前で半徹夜してしまいました。

いわゆる「閲覧注意!」系の動画、画像解説まとめでまず3時間
・・・今まで歴史に埋もれていた陰惨な事件や、奇妙な現象などの
世界中のUG知識を久々補充。
こういう、無駄知識こそが、僕的な肥やしになるので、無駄な時間ではありません。
総統地下壕のモノクロ写真をみながら、ディストピアに対する不思議な魅力
を感じていました。

その後、ふいに、昔の友人のつぶやきを偶然みて、
その絡みで、いろんな懐かしい人の近況を通りすがってみていると、
あっという間に夜明けに。

若い友人だと、自分が、かつて、同じように悩んだ事を
悩んでいたりして、答えを知っているもんだから
「そこは、そうではなく、こう!」と言って上げたいのですが、
自分で、ぶつかりながらはじき出す結論も価値があるしな。

今の自分も、少し先の自分から見たら、きっと、歯がゆいはずでしょうし。

僕は、ツイッターはやっていないので完全にとおりすがるだけですが、
このブログが同じように、実は、何年も前に、
付き合いがとだれた方が、ちょいちょい見てくれているのかも
知れませんね。

その通りすがりの一人が、未来の自分かと。