内田ユキオ いつもカメラが

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何せ、写真の「し」も、カメラの「カ」も
一からだったので、
写真家なんてアラーキーぐらいしか知らなかった。

写真というジャンル自体が、一般的にはそんな感じなのかもしれない。

図書館で借りる時、
事前知識も、先入観も無く、
信者や、アンチがどれぐらいいるかなんて関係無しに
手当たりしだい。

今回借りた内田ユキオさんの
フォトエッセーの文体が春樹、あるいは野島っぽいなぁ~と
感じていたら、アマゾンの評価に、同じように感じている人が!
その筋では、有名な方だったのかな?

村上春樹が、もし、写真も撮る作家で、
ノルウェーの森に自身の写真が載っていたとしたら!
おのおののイメージが崩れてイマイチだったりして。


カラーとモノクロの違いは、
挿絵アリ小説と、挿絵無し小説の違いに近いかも。

筆者をはじめ、多くの写真家が、強く勧めるモノクロ=挿絵無し小説

逆に、テキストに、抜群のイラストが合わさる事でこそ、大ヒットする
ジャンルもある。
子供時代に原作の銅版画に圧倒されたジュール・ベルヌや、
今時なら「ライトノベル」なんて挿絵命だもんな。

小説の世界では、挿絵無しの方が、市民権も量も多い。
写真となると事情は少し変わって来る。

結局は、写真としての挿絵無しの魅力は、声を上げないと一般には伝わりにくい・・・
そんなイメージかな。

以下 フレーズメモ

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サクラを撮るのが難しいのは
人がサクラを美しいと感じる気持ちの中に、それぞれの思い入れが
含まれているから。
そういった気持ちまで写真に残すのが簡単でないから。
つい、最近の事なのに記憶にあるサクラと重ならない。
モノクロだと、限りなく白いグレーにおのおのが、
楽しかった思い出として色をつけられる。

日常の些細な移動でも旅のように感じられる
部屋にいても世界は撮れる

名前を決めかねているもの・・・悲しみ、懐かしさ、ぬくもり、ときめき
色によって見えにくくなっていたものや
感じていたのに見えなかったものがモノクロだと写真に残る

日記ではなく、暑中見舞い
自分用の日常ではなく、異なった環境の異なった立場の人に向けて、
自分の思いを届けようとする写真もときどきは

メールと直筆の手紙
プリントはわずかな厚みに無限の奥行きがある

あしたが今日と同じなら、写真を撮る意味などそれほどない
いつでも同じ場所に戻れるなら
カメラなどなくても構わない
でも、いろいろなものが失われ、色々なものがへんかしていく
自分がそこにいて、それを見つめていたという証を残していく必要がある

夏目漱石草枕の中で
腹が立ったら俳句にまとめてみればいい
自分と距離をおくことができて怒りは変じているはずだ
漱石の時代はもっともシンプルな形が俳句だった。
いまなら、写真がある

心が動けばカメラを手に取り、
言葉を選んで、削るようにフレーミングして、
季語を織り込むように何かの証を添えてやる

怒った時は、声を荒げる代わりに、
悲しい時には涙の代わりに
おかしい時には笑う代わりに
シャッターを切る。
怒りは過去のものとなって遠ざかり、喜びは時間を経て再び心を
温めてくれるだろう。

どんなかたちでも残しておきたいと願った人、二度と訪れることのない街、
もう引き返せない時代を