模倣ではなく、居心地のいい一形態

ハイコントラストラフモノクロームといえば、
森山大道や、中平卓馬の模倣であって、どうせ、
オリジナルを超えることが出来ないから、いずれ、脱却すべきだ!

という語りをちらほら見かけるのですが、
僕は、彼らの写真のFANになったのがキッカケで、
ラフモノクロームにはまりいよいよ3年

まったく飽きる気配がないんですよね。

イメージ 1


一時、こういう仕上げをしていると、
初心者の横好きっぽく見られるのに変な劣等感を感じていたのですが、
いつまでたっても飽きる気配がないので、どうやら、
コレは、写真にはまる人が必ず通り過ぎる一過性のモノなのではなく、
もともとの性分なのかも・・・と感じています。

イメージ 2


ラフモノクロームの写真が持つパワー。


苛立ちや、嫉妬、不条理への無力感、脱力感・・・
そういう、人間生活の、マイナス要因になる気分からなかなか脱出できない時、

キミだけじゃなく、
オレも、同じように、風景がみえるから安心しろよな。
そんな日って、多いよな。

というような、同調への安心感が根底にあるんじゃなかろうかと
最近うすうす感じています。

イメージ 3


だから、人が撮ったものでも、自分が仕上げたものでも、
フィルターポン作品でも、なんでもいいんです。
少しでも、たくさん量産したり、鑑賞することで、
同じような感覚の居場所を確保できる。

そして、一瞬の雲の切れ目に、
ふわふわのハイキーな写真を楽しむ。

まぁ、そんなことを考えながら仕上げていました。

イメージ 4


というわけで、チットも安定しないはずの、
今年も、いっぱいこの書庫を増やしていくんだろうなぁ。

ラフモノクロームFANともっとつるみたいのですが、
みんな、どこにいるんだ(W

イメージ 5