

例えば、紅葉の写真を撮りたいので、そのイメージトレーニングをしようと、
「紅葉 逆光」
だとか、
「紅葉 曇り」
だとかで、検索すれば、ばばば~っと、作例がびっしり。
そして、当然ながら、似たような構図、アイデアがずらずらと。
最初は、
お~
とか、
すげ~
とか、思うのですが、実は、定番アイデアだとわかって、
結構おなか一杯になるのも早いんですよね。
よく、
「誰がとっても同じ写真になる被写体なら、
そこで、自分がわざわざ切る必要はあるのか?」
という問答がありますよね。
名所だと、みな、同じ方向、同じようなカメラ、レンズで、同じ瞬間に切る。
モデル撮影会でもおそらく同じ?
現像処理も、よほど、トリッキーに攻めない限り、
正解の選択肢はある程度決まっていて、結果は、似たり寄ったりのはず。
それは、はたして、隣の人と、違った写真になっているのか?
自分だけの作品といえるのか。
出来れば、最初に発見した感動を、独り占めしたい。
自分だけが唯一覗き込め、定着できた
「画」
を追い求めたい!
・・・そういう欲望は確かにあるのですが、しばらくして、
はたと気づくのです。
僕は、みんなと、違う必要はあるのか?
写真集あるいは、写真素材集売り上げが、生活に直結している人はともかく、
アマチュアが非営利に、趣味として、あるいは、生活の記録として撮る、
自分が生きた時間の証拠としての写真。
そういうのを考えた時、
少なくとも、みなと違うものを撮らないと!という事よりも、
あぁ、いま、この瞬間、コレを、美しいと感じた
というキモチの記録を優先すればいいんじゃないかと。
そして、そういう気持ちの瞬間がカメラを構えている時に
多数めぐり合える事が、
最も幸せ・・・に近づけているのではないかと。
そして、
それは、仲間の撮った作品を楽しむときも同じ。
自分が、そのばで、見た瞬間、いい!
って感じられたら、それで、双方幸せ。
小難しい事は後回しにして、まず、喜び会うのが先決だと。
・・・と、今日は考えていました。