陰翳礼讃241 撮れないものの存在について考える

過去は撮れる

「いま、ここ」でしか写真は撮れない

観る側に過去を提示することは十分にできる

 

写真で未来を撮る

縄文人がみている夢

私は世界をこう観ています

こんなふうに観えています

こう観たいです

こう観えませんか

と宣言し、問うことである

新たな価値観の提示

何にカメラを向けるべきか

少なくとも時間軸については意識すべきだろう

20年後の未来から今を想像することで

なにかヒントが見えるかもしれない

真似したものは本物を超えることがない

人の心を穏やかにしておかない毒や狂気のようなものが

潜んでいる

心の深いところにそれら尋常ならぬ感覚を持っていてカメラを使って

外側の世界とすりあわせている

あるいは媒介として使っている

自身の中に確実にある感覚に確信はあるのだが

それをかんたんに言葉にできず、言葉にできたとしても

それが他社に伝わりにくいものだとわかっていてそれを残念に思っている

他の誰にも嗅ぎ分けられないものを嗅ぎ分けている

みんなにわかってもらえないから

時代に受け入れられたり流行する写真というものは存在する

ではなぜその作品は受け入れられたり流行するのか

時代の空気

ある特定の人達の心情とシンクロするからだ

作者が撮影以前にそれらを敏感に感じ取っていることは

間違いない

いつの時代も最初から流行っている写真がそんざいしているわけではない

写真は職業より表現者の方が面白いと思う人が増えてきた

裏を返せば収入源を他に持つ人のみ表現者になれるということだ

写真家は生き方であり職業ではない

 

人を差し置いて機械のほうがより技術を持ってしまったら

カメラマン不遇の時代が来る

しかしその後逆に写真ブームがやってきた

今後も新たな流れが必ず生まれると信じている