絶対ばれないドーピングを拒否する選択肢

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アラフォー世代にとって、ドーピングというキーワードが始めて
印象付けられたのはベンジョンソンの979抹消事件ですよね。

ヘラクレスの彫刻のような「美しすぎる」筋肉美。血走った白目。

当時無敵だったカールルイスの前を走りながら、
記録抹消された事に、悪いことながら奇妙な思いがしました。

今、中学の国語教科書に「空中ブランコ乗りのキキ」という、
どうも後味の悪い小節が取り上げられています。

ドーピングに成功して、技の成功と引き換えに命を失う///
さぁ、あなたなら、どうしてた?という重いテーマです。

中1でコレを、考えさせるには、人生経験浅過ぎると思うんだよな。

生きていく過程で「悪いこと」だと分かっていても、
そこは妥協したほうが、トータルでもっと悪くなるという微妙なさじ加減ってありますよね。
色々ぶちあたって、失敗や成功を積み重ねないと付かない感覚です。

オリンピックドーピングテクノロジーも、そろそろ、絶対にばれない領域に
成り始めている予感がします。
はたして、その時に、今は、「ドーピングはダメ!」といってる選手達が、
メダルより、競技愛こそ命といって、「しない」を貫き通せるんだろうか。

元々、生き物としての、DNAレベルの「闘技本能」が、理性を駆逐する気がします。

論理<<情熱=本能

本能がらみの欲求はまぁ、抗えないからなぁ。第三者の強制ストップがないと。

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オリンピックで金

これは、外野が、いくら、金でなくてもいいと言っても、
やっぱり、金以外は目指すところでは無いってのが本音だろうな。

まずは、参加、まずは表彰台というレベルの選手、種目は別として。



高校野球、チラリと見ましたが、いいモンですね。
二度ない夏というのが最初から運命付けられてる事による緊張感がいい。

応援するチア達も、(特に鳴門!)プロのアイドル集団達より
はるかに拙いのに、はるかに本物のアイドル感が濃い!
汗にぬれる髪とか、上気する赤い頬とか全部本物。ステキです。

甲子園に出ても、プロにすら行けない、無名の選手がいっぱいいます。

それでも「甲子園に出た」というチーム努力とその周辺に携わった(チア達も含め!)
人たちは、一生のよき思い出として、野球とは関係ない普通の生活を
おくるんですよね。

ただ、そういうスポーツとの絡み方は、事後結果であって、
現役の最中は、やっぱり、最強のみを目指しちゃうんだろうな。

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「哲学の歴史は、真理はそもそも存在しない事を示す過程だった」

イチローのような、野球の神の人生が、
野球を志す人の全ての最終目標ではないとなって初めて、

ばれないドーピング?いや、そういうのは、僕は、別に・・・といえるんだろうなと。


その時々の自分にフィットする哲学に出会えている時は
しばらくは、心が落ちつきます。
哲学理論は、最初から、その程度の拘束力で、
永久不滅の正義理論なんて絶対にないと、高校生ぐらいからは
パターン演習させとく必要があるんじゃないかな。


僕は、今は、梅原大吾の勝負哲学に傾倒して安定ループに入っていますが、
また、いずれ、この理論が破綻しだしても、
「やっぱり、思想なんて、そんなもんだよな」
と、その時は、陽気に取り乱したいと思っていますw