文系大量廃止 教養って?

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100円の2割増しは120円ですが、
120円の2割減は100円に戻らないという当たり前の理論。
これ、昔、なかなかしっくりこなかったなぁw


大学の文系学部が大量に廃止されるとか。

まさに、神の見えざる手というか、抗えない時代の流れだなぁ。

哲学、歴史、文学、理系だと天文学科とかの純粋な教養学部って、
三度の飯より、それが好きというような、ごく一部の超ヲタクが
人生をかけて、極めていく学部としては優れているのですが、
誰でも、どこかに入れる時代の、なんちゃってで単位を取るための
学部としての存在価値は弱いですよね。

そりゃ、バイト、サークルや、ボランティアで人間力を鍛えて~とかになりますわ。

新聞でも、「教養とは」
について、いろんな層の文化人がそれぞれの立場から
好き勝手語っていました。

大学教授、ドワンゴ社長、AKBメンバー、政治家etc

それぞれの「教養」定義が、てんでバラバラで、ニヤリとしてしまいます。
そもそも「教養」って単語の定義自体が、そういう要素を含んでいるんでしょうね。


もう一つ感じたのが、「教養」が優れているってどういうことか。
一応、知識と教養を使い分けて、いつまでも失われないものを教養とするなんて
いう人もいますが、ちょっと詭弁だなあ。

年長~大学生までは、
シンプルに、前の年までに読めなかった漢字が読め、解けなかった計算が解け、
という事に、人間としての進化を味わえますが、できなかったことができるようになる
それを進化と定義するなら、学生を過ぎたのちは、退化する一方ですよね。

もちろん、そういうわけじゃない。

今時は、見た目がさほど変わらなくても、20代より30代、40代と、
人生経験量でしか培われない「人間の深さ」は確実に存在します。
いろんな年代の人と、同じ土俵で仕事をしているので、余計感じます。
年の功って、ちょっとしゃべればわかります。
自分自身を振り返ってさえ、そう実感します。

自分の教え子が、高校生になって、自分がすでに解けない物理の問題が解けるようになって、
そして、その子が、また年を取って、社会人になり、
自分がかつて教えた中学レベルの問題ですら解けなくなっていく
という過程を実際に体験すると、何とも言えない不思議な感覚に陥ります。

そんな、一時だけ保持される知識を一生懸命詰め込む事にふっと、
虚しさを感じるのですが、詰め込む練習自体も大事だしなぁ。

何もかも忘れて、その知識が、必要で無くなった時に、
「あの日の話、体験は忘れられない」
とお互いに言える工夫を楽しみたいなと。